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姫様にょっき |
2006年06月05日 |
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生きていることのありがたさ |
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今朝、病院から家に戻って(徒歩3分)、ひと風呂あびて着替えてさっぱりして、病室に戻り明るく
「おはよー!」
と妻&妻母(&子供)に声をかけたら、なんだかフンイキがちょっと違う。
「…4日目?」
とか姫様がまじめな顔でお母さんにきいているので、何かなと思ったら、お母さんいわく
「今朝、上の階の子供が死んだ」
といいます。
「うまれて4日目で、乳が鼻に入って、助からなかった」
とのこと。
うまれて4日目といえばうちともしかして同じ誕生日なのではないでしょうか。と思ったけど、カンボジア的にそれは口に出していいかわからなかったので、黙っていました。
冗談で
「この飛行機が落ちたらどうしよう」
とか口に出されるのも極端にいやがる人たちですから…。日本人以上に「言霊」が現代に息づいている方々ですので…。
同じ日に同じ病院でうまれても、たった4日目に、ちょっとしたことで明暗を分けてしまう。うちの子はどうってことなくふつーに今日も生きている。
星占いなんてだからあてにならないよ。
日本なら「病院のせい」だろう。訴訟でも起こすいきおいの親もいるかもしれない。
だけど科学的にいっても、これはもう「病院のせい」とはとてもいえない範疇だと思います。
この病院は約20の個室で構成されていて、病院の人は定時定時に、科学的な検査とアドバイス、それに食事を持ってきたりゴミを回収していったりする以外は、基本的に病室に常駐はしていません。
私は、「カオス」という理論を思い出すのです。おおざっぱにいえば、目に見えないほんのちょっとの違いがもとで、ものすごい大きく違う結果に至る現象です。
ちょっとした周囲の不注意で、生後4日の乳児が、窒息して死んだ…。これも、ほとんど「カオス」だと思うのです。ほとんど不注意ともいえない不注意、ほんのちょっとした毛先ほどの時間の、毛先ほどのよそ見…。ひとつ分子の動きが違えば、それはこの116号室に起きたことだったかもしれないのです。
私はこのことを、運命とかさだめとか御心とかステージとかいうことばで表現することには絶対に与しませんが、しかし科学という理性の盾矛を持たない人が精神の安定のため仮にそのようなものを信じることを、否定するものではありません。
それを病院のせいにしてしまうのは、気持ちはわかるけど(正確には、わかりたいと思うけれど)、あなたの子供の命は、まわりのみんなで生かすいのちではなく、病院によっていかしてもらういのち、その程度のいのちだったのかと感じてしまいます。(この項、ちょっと暴論気味ですが、この話をきいたときに率直に感じたことを書いてます)
このことは、年老いたときも同じかもしれません。
姫様の祖父(このたびひいおじいちゃんになった)は、クラチェとストゥントレンの間の田舎で暮らして75歳。プロレスが大好きで、小学生の孫たちといっしょにとても楽しそうに口をあけて笑って見ています。彼が来るとうちのテレビは一日じゅうプロレスです。ていうか、なんかしょっちゅうプノンペンに出てきてるんですけど。あの過酷な乗合自動車に詰め込まれて。元気元気。
だから、カンボジア人は寿命が短いってのもウソです。先進国の人間が、
「自分たちはこれまでこれだけがんばったんだから、後進国より寿命長くなきゃウソだ」
と思って統計局で作り上げた数字の幻想にすぎません。まあ、それにだまされてるうちは、日本人や欧米人はしあわせでいられるんだけど。ここへ来て現実を見ちゃったら、かわいそうだ…。
生きてるってことはそれだけで素晴らしいっすね。
なんか、マジでそう思えてしまったのは、オイラも「パパになった罠」ってことですか。

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